Ólafr[22]、Óláfr[16](オーラヴ[18][31][32]、オーラーヴ[16]、オーラーブ[30])
原典版
概要
- オーラヴ・インギャルズソン。<木樵のオーラヴ>。ノルウェー王[18]
- オーラヴ・ゲイルスタザアールヴ[18]
- オーラヴ・トリュッグヴァソン[18](オーラヴ・トリュグヴァソン[31]、オーラーヴ・トリュッグヴァソン[16]、オーラーブ・トリュグヴァソン[30])(Óláfr Tryggvason[16])。ノルウェー王。即位前年にキリスト教徒になった後、しばしば武力の脅しをもってノルウェーのみならず、当時この国の影響圏内にあった北海や北大西洋の島々にもキリスト教を導入したといわれる。十二世紀以降、この宣教王を主人公にした相当数のサガがOddr munkr、Gunnlaugr Leifsson、Snorri Sturlusonらによって書かれた[16]
- オーラヴ・グズレーザルソン。ノルウェー王[18]
- <肥満漢>オーラーブ・ハラルズソン。聖オーラーブ王、オーラーブ聖王(オーラヴ聖王[18])とも。ノルウェー王。ハラルド苛烈王の異父兄。英国王エセルレッドとデンマークのスヴェイン王との戦いでデンマーク軍がロンドン橋を押さえた時、たまたまデンマーク軍と戦っていたオーラーブが部下に命じて橋を引き壊し落とした出来事は、のちに「ロンドン橋おちた」で有名なマザーグースの歌になった。キリスト教の布教に努め、デンマークに支配されていたノルウェーを解放した[30]。北欧のキリスト教化に生涯をささげ、それに殉じ、死後、聖王とひろく崇拝された[18]。北欧では七月二十九日は聖オーラーブの日とされ、特にノルウェーでは祝日として各地で様々な行事が催されている[30]
- オーラーブ・スコトコヌング。スウェーデン王。娘がヤロスラブと結婚した[30]
- 969年[18][30] オーラヴ・トリュッグヴァソン王生まれる[18][30]
- 994年[18][30][31] オーラヴ・トリュッグヴァソン王がシシリーで洗礼を受ける[18]
オーラヴ・トリュグヴァソン王とデンマークのスヴェイン・フォーク髭王がロンドンを攻撃[30][31] - 995年[16][18] ノルウェーのオーラヴ・トリュッグヴァソン王、オーラヴ聖王が生まれる[18]
- 997年[18] オーラヴ・トリュッグヴァソン王とエルリング・スキャルグスソン。改宗のため、司祭サングブランドをアイスランドに派遣する[18]
- 998年[18] オーラヴ・トリュッグヴァソン王とスウェーデンのシグリズ王。スラーンドヘイムの改宗。オーラヴ聖王が洗礼を受ける[18]
- 1000年[16][18] スヴォルズの戦い。オーラヴ・トリュッグヴァソン王死す[18]
- 1007年[18] オーラヴ聖王のヴァイキング行のはじまり[18]
- 1015年[30] オーラーブ・ハラルズソンがノルウェーの王位に就く[30]
- 1024年ごろ[32] オーラヴ・ハーラルソンがキリスト教に改宗した[32]
- 1028年[30] オーラーブ・ハラルズソン、クヌート王によりノルウェーから追われ、ロシアの義兄弟ヤロスラブの宮廷に身を置く[30]
- 1030年7月29日[30] オーラーブ・ハラルズソン、スティクレスタドの戦いで敗れて死ぬ[30]
ヘイムスクリングラ 原著者序文
- オーラヴ・ゲイルスタザルヴ。ハルヴダン黒髪王の兄弟。ログンヴァルド栄誉王の父[18]
- オーラヴ・トリュッグヴァソン王(Ólafr konungr Tryggvason[22])。ニザルネスに商業地をつくらせた。オーラヴ・トリュッグヴァソン王の没後からほぼ八十年後、司教イースレイヴがこの世を去った[18]
- オーラヴ聖王(Ólafs konungs hins helga[22])。司祭アリを自身の参与に任命した。その後、ゴジのスノッリが他界する一年前に没した[18] (konungr 王 [男] 英語kingに相当)[3](hinn [代] あの)[3](heilagr 神聖な [形] 英語holyに相当)[3]
ユングリンガサガ
- <木樵のオーラヴ(Ólafr trételgja)[22]>。インギャルド王とその后ガウトヒルドの間に生まれた息子の名。アーサの弟。西ガウトランドのボーヴィのところに送られ、彼の子サクシと共に育てられた。父王の死を耳にすると、自分に従う軍を率いてウプサラからネーリーキに逃亡したが、インギャルド王の一族とその友人すべてを追放しようとするスウェーデン人たちに知られてしまったため、そこからさらにエルヴと呼ばれる川のところへ行って森を開き、その地をヴァルムランドと名付けて定住した。そして、そのことを知った人々から、卑しむべきものとして<木樵>と呼ばれることとなった。その後、ソルヴェイグという<金歯のハルヴダン>の娘を妻に娶り、間にインギャルドとハルヴダンという二人の息子をもうけた[18] (tré 木 [中] 英語treeに相当)[3]
- イーヴァル王に国外追放された多くの者がヴァルムランドに押し寄せた結果、土地が彼らを養えなくなり、また、それがたまたま凶作と重なったため飢饉になった。そしてその飢饉の原因はほとんど供犠をおこなわなかったオーラヴ王にあるとするスウェーデン人たちにより焼き殺され、豊作のための生け贄として、その身をオーディンに捧げられた[18]
- <慧眼のオーラヴ(Ólafs hins skyggna[22])>ネーリーキの王。アーロヴの父[18] (hinn [代] あの)[3](skygnaz あたりを見回す)[3]
- <誇り高いグズレーズ>とその妻アールヴヒルドとの間に生まれた息子の名。後にゲイルスタザアールヴ(Geirstaða-Álfr)[22]と呼ばれた。偉大な勇士であり、だれにもまして美麗で、身の丈もすぐれて大きかった。グズレーズが死んだとき、ちょうど二十歳だったオーラヴは、弟であるハルヴダンとヴェストフォルドをたがいに分け、東側を支配した。足を患ったことが原因で死亡し、居城があったゲイルスタジルに埋葬された。その後は、息子のログンヴァルドが国を支配した[18] (álfr 妖精 [男])[3]