スノリ・ストルルソン
概要
- Snorri Sturluson[3][16][18](スノリ・ストルルソン[1][26]、スノリ・ストゥルルソン[27]、スノッリ・ストゥルルソン[6][18]、スノッリ[23][25]) [男][3]
- アイスランドの政治家・歴史家・作家[3]
- 幼時を当時学芸の中心であったオッディですごし、後に西のボルグの首長になり、歴史家、法律家、詩人としても名声を高めたが、後に政争に巻き込まれ、殺害された[1]
- 代表作に『エッダ(スノリのエッダ、散文のエッダ[3])』『ヘイムスクリングラ』がある[1]
- ※エギルのサガをスノリの著作とする説もあるが、根拠が無い(ネッケル)[1]
- 1179[18][26](1178[3]) アイスランド西部のクヴァムルの首長、ストゥルラ・ソールザルソンの子として生まれる[18]
- 三歳のとき、学者セームンドの孫にあたるヨーン・ロフトソンの養子になり、当時学芸の中心地であったオッディで約二十年間養育される[18]
- 二十歳のとき、資産家の女性と結婚[18]
- 1202年 妻とボルグに移ったが、その後別居し、島内の別の資産家の女性との間に子供をもうける。その後、娘らは国の有力な一族と結婚した[18]
- 1206年 レイキャホルトに移り、まもなくゴジ(首長)の地位を得る[18]
- 1215年~18年 法令布告者を務める[18]
- 1218年 第一回ノルウェー訪問。ハーコン・ハーコナルソン王の摂政であったスクーリ候の歓待をうけ、二冬を候のもとですごし、スウェーデンやノルウェー各地の史跡をたずね、後の『ヘイムスクリングラ』のための材料を集めた。滞在中には王の家臣となり、Lendrmadr(封土を与えられた貴族)の称号を受けたが、独立派とされたアイスランド側からはそれが裏切り行為ととらえられる[18]
- 1222~23年 帰国後、ハーコン王とスクーリ候の功業を称えた頌歌を書く。ストゥルラの一族の一人として、アイスランドの政争や、アイスランド支配をもくろむノルウェー王の政治的野望に直面する一方、ノルウェーのスヴェリル王やインギ王、ハーコン候への頌歌をささげるなどし、ノルウェーの支配者たちの機嫌を取る[18]
- 1222~31年 法令布告者を務める。ベルゲンの商人とオッディのスノッリの乳兄弟セームンドの対立抗争が次第に激化したことにより、ノルウェー側が事件を重く見て、アイスランドへ出兵しそうな気配になる。それに対して、スノッリは調停を自分に任せるようにとスクーリ候にたのみ、息子ヨーンを人質にノルウェーに送ったものの、アイスランドをノルウェー王の統治下に組み入れる動きは見せなかった。それに腹を立てたハーコン王は、ローマ巡礼の帰りにノルウェーに立ち寄ったスノッリの甥で、今はスノッリの敵対者になっているストゥルラ・シグヴァットソンをスノッリの代わりに総督にすると約束をすることで釣る。スノッリの娘をもらった有力者ギツルもスノッリと不和を起こし、妻を離縁してスノッリの敵になる[18]
- 1237年 スノッリはギツルらとの抗争に敗れて捕らえられ、ノルウェーに送られ、スクーリ候の息子の元に身を寄せる。アイスランドにて兄シグヴァットらがギツルらに殺されたのを機に、再起を図るためにハーコン王の禁令に背いて帰国。立腹したハーコン王はハウカ谷のギツルにスノッリを殺害するか生け捕りにせよとの密書をおくる[18]
- 1241年9月22日夜 ギツルがレイキャホルトの屋敷の隠れ部屋に潜んでいたスノッリを殺害する[18]