víkingr[3](ヴィーキング[2]、ヴァイキング[1][30][31][32]、バイキング[10][28]) víkに住む者[3]、入り江に住む民[32] [男][3]
― vík[3] 湾、入り江[3] [女][3]
原典版
概要
- 八世紀から十一世紀にかけて、定住地スカンジナヴィアからヨーロッパ各地を席巻し、さらにアイスランドとグリーンランドを経由してカナダのラブラドル半島やニューファンドランド島へ渡った[32]
- ノルマン人と呼ばれることも多い[31]
- スウェーデンのヴァイキングはどちらかというと商人であり、ノルウェーのヴァイキングは植民者の性格が強かった。デンマークのヴァイキングは当時北欧の内もっとも大規模で組織的な侵攻を行っていた[30][31]
- ハラルド美髪王のノルウェー統一に不満をもつバイキングたちの一部はシェトランド諸島に植民し、島の開発を進めていった[28]
- ヴァイキングの間では、死者は神の住むヴァルハラへ身の回りの品と一緒に旅立つと考えられていた[32]
- 中世北欧の資料によれば、若者がヴァイキングに出かけるということは「富と名誉を求めに行く」ことを意味していた[30]
- バイキング時代、旧暦の冬至の日である十二月十三日(近代の暦では一月十二日[31])には一年中で最も重要な「ユール」の儀式、太陽の復活と豊穣を祈り祖先を敬う祭りが行われていた。冬至を表す「ユール」は現在、北欧ではクリスマスの意味でもちいられている[28]
- 東方(スラブ人[30])ではヴァイキングのことを「ルース(Rus)」または「ルス[30]」と呼んでいた。ここから「ロシア(Russia)」という言葉が生まれた可能性も考えられている[30][32]
- アイルランドでは、デンマークのヴァイキングは黒い異教徒と呼ばれ、ノルウェーからの白い異教徒とは区別された[30]
- ヴァイキングは、フネフターフルと呼ばれる、駒を使った盤上のゲームを楽しんだ[32]。また、モルレズと呼ばれるチェッカーに似た盤上ゲームやサイコロ賭博なども楽しんだ[31]
- ヴァイキングの芸術品はローマ、ケルト、フランクなどの模倣から始まったが、特にケルト文化の影響を強く受け、組み紐文様と曲がりくねる象徴的な動物が主要なモチーフとなった[30]
- 英国のヨークにある「ヨーヴィック・ヴァイキング・センター」では、再現された十世紀のヴァイキング時代の町並みや等身大の人形などの展示を電動車に乗りながら約13分の音声解説(日本語もある)を聞きながら巡ることができたり、発掘現場や研究所の再現、また遺跡から出土した様々な展示品を見ることができる[31]
- 500年頃~700年頃[31](六~八世紀[30]) スカンジナビアのヴェンデル期[31](ヴェンデル時代[30]、前ヴァイキング時代[31])
……ヴァイキング時代以前にすでに強大な王がおり、華やかな文化ももっていた[30] - 600年~700年[31] スウェーデンの商人と船乗りがバルト海沿岸に植民地をつくる[31]
- 700年~800年[31] ノルウェーの船乗りにより近隣西欧諸国への最初のヴァイキング掠奪[31]
- 793年[30][31]6月8日[30] ノルウェーのヴァイキングがイングランド北東海岸のリンディスファーン修道院を襲撃[30][31]
- 795年[30][31] ヴァイキングがスコットランド西岸のアイオナ島の聖コロンバ修道院を襲撃[31]
ヴァイキングがアイルランドのダブリンの北ランベイ島を襲撃[30] - 800年[31] ヴァイキングがスコットランド北部のオークニーとシェットランドおよびフェーロー諸島に野営地をつくり、アイルランド侵入の準備をする[31]
- 828年[31] ヴァイキングがアイルランドに侵入し、支配権を握る[31]
- 834年[30][31] デンマークのヴァイキングがライン河畔のドレスタッドの大通商センターを攻撃[30][31]
- 835年[30][31] テームズ河口にヴァイキング出現[30]
デンマークのヴァイキングがイングランドの南東岸に近い小島シェッピイ(シェッピ[30])を掠奪 - 836年[30] 120艘からなるヴァイキングの船がアイルランドのダブリンに襲来し、植民地をつくる[30]
- 839年[30] ルートヴィヒ敬虔王が迎えたビザンチンの使節の中にルスと呼ばれるスカンジナヴィア人[30]
- 841年[30][31] ノルウェーから最初のヴァイキングの植民者がアイルランドに到着し、ダブリン市を建設する[30][31]
デンマークのヴァイキングがセーヌ川をさかのぼり、フランスの重要な町ルーアンを略奪[30][31] - 843年[31] デンマークのヴァイキングがフランスのナント港を攻撃する[31]
- 844年[30][31] ヴァイキングが南方にむかい、スペインとポルトガルを攻撃するが、スペインのムスリムの支配者に追い払われる[31]
- 845年[30][31] ハンブルク大司教座がヴァイキングにより破壊される[30]
ヴァイキング(ラグナル・ロズブロク[30])がフランスの首都パリを攻撃。フランスのシャルル禿頭王は退去を条件に金を支払う。以後、イングランドとフランスのヴァイキングは毎年巨額のデーン税(デーンゲルド[30])を要求するようになる[31] - 850年[30][31] セーヌ河とロワール河の河口にヴァイキングの定住地ができる[30]
ヴァイキングが初めてイングランドで越冬する[31] - 859年[30][31] ヴァイキングのイタリア襲撃[30]
ヴァイキングが地中海へむかい、3年間海賊として生きる[31] - 860年[30] ヴァイキングのビザンツ襲撃[30]
- 860年~874年[31] ヴァイキングによるアイスランド植民の開始[31]
- 866年[30][31] ヴァイキングがヨークを占拠し、王国をつくる[30][31]
- 868年[30] ヴァイキングがマーシャに軍を進め、デーンゲルドの支払いを要求する[30]
- 870年頃[31] ヴァイキングが東イングランドの大部分を支配し、それらの地はデーンロー(デーン法の施行された地域)として知られる[31]
- 871年[30][31] ウェセックスの(王エセルレッドとその王弟[30])アルフレッドがヴァイキングに対するイングランドのレジスタンスの指揮を執る[30][31]。アルフレッドはエセルレッドの死後、王となる[30]
- 878年[30] デンマークのグズルーンがエディントンの会戦でアルフレッドに敗れ、改宗する[30]
- 881年[30] ヴァイキングがドイツの内陸のアーヘン、ケルン、ボン、マインツなどを襲撃[30]
- 885年~886年[30] ヴァイキングのパリ包囲。ウード伯の戦功[30]
- 886年[30][31] ヴァイキングとイングランドが和睦[31]。アルフレッドとデーン人との間で土地分有の協定ができる(デーンロウ)
- 896年[30] イングランド海軍がヴァイキング艦隊を破る[30]
- 900年頃[31] ヴァイキングがロシアを通る陸の通商路をひらく[31]
- 901年[30] アイルランド人がダブリンをヴァイキングより奪回[30]
- 980年[30][31] ヴァイキングがイングランドに対して一連の略奪を始める[30][31]
- 1030年頃[30] ヴァイキングのキリスト教改宗が進む[30]
- 1042年[31] エドワード懺悔王がヴァイキングからイングランドの支配権を取り戻す[31]
- 1071年[31] ヴァイキング(ノルマンジー出身のロベール・ギスカールとロジェール兄弟[30])がシシリーと南イタリアを占領し、ノルマン王朝をつくる[31]
- 1100年[31] ヴァイキング時代の終わり。ヨーロッパの様々な国に住むヴァイキングの居住者は、地元の人々に溶け込み、同化した[31]