Danmorc[13]、Danmörk[16][22](ダンメルク[1]、デンマーク[1][11][16][18][25][26][30][31][32])
原典版
概要
- もともとスカンディナヴィア半島南部に居住していたと考えられるデーン人が建てた国。最初期のノルド語が「デーン語」dönsk tungaと称されていたこと等からみて、古代北欧にあっては勢力が強大であったと推測される[16]
- 伝承によれば、オージンの息子スキョルドが支配王朝(スキョルドゥング朝)の祖である[16]。また『ベーオウルフ』にも、デネのスキュルディング王朝の建設者はスキュルドであると書かれている[11]
- 北欧神話というときの北欧は、フィンランドをのぞいたスカンジナヴィア(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー)とアイスランドをさす[25]
- デンマークの各地には先史時代の巨石遺構が残る[11]
- 低地で、砂地の荒れ野と肥沃な原野からなる[31]
- デンマークのヴァイキングは国作りのための富を掠奪ないし通商に求め[30]、当時北欧の内もっとも大規模で組織的な侵攻を行っていた[31]
- アイルランドでは、デンマークのヴァイキングは黒い異教徒と呼ばれ、ノルウェーからの白い異教徒とは区別された[30]
- 1047年[30] スヴェイン・エストリズセン王がデンマークを統治[30]
シンフィエトリの死について
グズルーンの歌Ⅰ
グズルーンの歌Ⅱ
- シグルズを亡くしたあとのグズルーンがデンマークに住むハーコンの娘ソーラのところに三年半の間滞在し、二人で布に、デンマークの白鳥などを金糸で刺繍した[1]
- デンマーク王の名として、ヴァルダル、ヤリスレイヴ、エイモーズ、ヤリツカールの名が挙げられる[1]
ヒルデブランドの挽歌
詩語法
ヘイムスクリングラ 原著者序文
- デンマークではかつて火葬が行われていたが、<誇り高きダン>王が陵墓をつくるようになってからは、彼の子孫の王はそれにならい陵墓を作るようになった[18]
- 司祭の賢者アリによって、ノルウェーやデンマークやイングランドの王たちの生き様などが記録された[18]
ユングリンガサガ
- デンマークで最初にkonungr[22](王[18])と呼ばれたダンプ王の息子である<高慢な>ダン王の名にちなみ、デンマークという国名が名付けられた[18]
- ヨールンド王とエイリーク王がデンマークに略奪行に出かけ、そこでグズラウグ・ハーレイギル王と戦い、勝利した。のちにスウェーデン王となったヨールンドがデンマークへ略奪に出かけ、グズラウグ・ハーレイギル王の子ギューラウグ・ハーレイギル王と戦い死亡した[18]
- もともとデンマークはスウェーデン王国に対して激しい攻撃をしかけていたが、ユングヴァル王の治世のころ、デンマーク人はスウェーデン王国と和睦を結び、ともに東方を荒らしまわることとなった[18]
ソルリの話とヘジンとホグニのサガ
デンマーク人の事績
- 大司教アブサロンの委嘱により、サクソがデンマーク人の事績を歴史のかたちにまとめることとなった[11]
- スウェーデン及びノルウェーと位置、言語共に近く、東にスウェーデンを望む。デンマークの周囲の一部は他国と国境を接し、一部は近い海の潮によって囲まれている。デンマークの国土の中心部分はちょうどシアランディアであると考えられている。各地に途方もなく大きい岩があることから、この国はかつて巨人によって耕されていたと考えられる[11]
- デンマーク人はダンとアングルを祖に持つとされているが、アクウィターニアの史家ドゥドーによれば、デンマーク人はダナイから発したと考えられている[11]
- デンマークの王たちは、スキョルドにちなんで「スキョルドゥンギ」と呼ばれた。またスキョルドの子グラームは、デンマーク最古の歌の中で王家にその名が冠せられるほど後世の人々から評価されたという。グラームが父王と共に王国の支配権を共有することをよく思わなかったシェランのリングにより、デンマーク人の多くが扇動されて反乱を起こしたが、グラームによって圧倒された。グラームがスウィブダゲルに討たれた後は、スウィブダゲルによって支配された。その後、スウィブダゲルに貢納を誓ったグラームの息子グトルムによって支配された。その後グトルムの異母兄弟ハディングがグトランディア付近でスウィブダゲルの大艦隊と遭遇し、これを打ち倒し、親と兄弟の復讐を遂げ、祖国の王権を取り戻した。ハディングがアースムンドを討った後、その軍勢はスウェーデン中を荒し回っていたが、アースムンドの子ウッフォが自国防衛よりもデンマークに攻め込んできたため、デンマーク人達は祖国防衛のために国に引き返した。その後春になると再度ハディングはスウェーデンに遠征したが、五年間も戦い続けたため食料は尽き、デンマーク軍は飢えに襲われ、最終的にスウェーデン軍に敗走した[11]
- 会談という口実でウッフォに招かれたハディングの共のデンマーク人たちは、策謀により殺害されることとなった[11]