Haraldr[3][9][16](ハラルド[1][2][3][10][11][16][28][30][31]、ハーラル[32]) 軍を統括する者[3]、Heer-walter[3] [男][3]
原典版
概要
- ノルウェーの男子名[3]
- ハラルド・ハルヴダナルソン[18](Hálfdanarson)[16]。ハラルド美髪王[3][16][18][28][30](Haraldr hárfagri[3][16]、Harald the Fairhair[3])。850年頃~930年頃[30]。ノルウェー最初の統一王[3][16]。賢者ショーゾールヴが詩人として仕えた[18]。ハラルド美髪王は反逆者を制圧するために北海の島々を巡り、オークニー、シェトランドで冬を過ごし、マン島まで航海し、ノルウェーに戻ったとされている[30] (hárfagr 美髪の [形] 英語fair-hairedに相当)[3]
- ハラルド・ゴルムスソン[18](ハラルド青歯王[31]、ハーラル青歯王[32])。デンマーク王。ゴーム老王とチューレ王妃の子[18]。デンマークのイェリングには十二世紀に建てられた教会があり、その南にゴルム王、北にスーラ王妃の二つの巨大な墳墓があり、二人の子であるハラルド王の名によって、祈念碑にデンマークで最初のキリスト像が刻まれている[30]
- ハラルド・エイリークスソン。<灰色マントのハラルド王>。ノルウェー王[18]
- ハラルド苛烈王[10][11][30][31]。ノルウェーの王[10][30][31]。その残忍さと復讐心の旺盛さから、苛烈王という渾名がつけられた。またブレーメンのアーダムからは「北方の雷鳴」と呼び恐れられた。最もバイキングらしいバイキングといわれる王で、詩人を厚く遇し、自らもいくつかの作品を残している[10]。美しく堂々とした男で、身の丈は6フィート(管理人注:約182㎝)以上もあったという。弱冠十五歳にてオーラーブ・ハラルズソンと共にスティクレスタドの戦いに参加するが敗れ、ロシアのヤロスラブの宮殿にてかくまわれる。その後はヴェーリンギャルとしてビザンチン、アフリカ、パレスチナ、シシリー等を転戦し、ヤロスラブの娘エリーザベタ(北欧名エリシブ)と結婚し、妻の祖父が治めるスウェーデンにもどり、やがて全ノルウェーの王となった。のちに1066年のスタンフォードブリッジの戦いで戦死した[30]
- 『デンマーク人の事績』にてハディングが鳥の帰巣本能を利用して城市を陥落させた戦法は、『ヘイムスクリングラ』のハラルド苛烈王の事績中にも語られている[11]
- 860年[18](850年頃[30]) ハラルド美髪王のはじまり[18][30]
- 872年[3][18][30] ハラルド美髪王、ノルウェーの専制君主となる[18][28][30]
- 890年[18] ハラルド美髪王とオークニー候[18]
- 900年[18] ハラルド美髪王と子供たち[18]
- 900年頃[31] ハラルド青歯王がヘデビュに塁壁の建設を命じる[31]
- 928年[18](930頃[30]、933年[3]) ハラルド美髪王死す[18][30]
- 960年ごろ[30][31][32] ハーラル青歯王(ハラルド青歯王[30])、キリスト教に改宗する[31][32]
- 970年[18] リムフィヨルドの戦い。<灰色マントのハラルド王>死す。<権勢あるハーコン候>らとデンマーク王ハラルド・ゴルムソン(ハーラル青歯王[32])[18]
- 979年[32] ハーラル青歯王が、デンマークのイェリング付近にスカンジナヴィア最初の橋を架けさせた[32]
- 980年ごろ[32] ハーラル青歯王によりデンマークに4つの巨大な円形の砦が建設される[32]
- 986年[32] ハーラル青歯王が追放される[32]
- 1015年[10] ハラルド苛烈王誕生[10]
- 1030年7月29日[30] ハラルド苛烈王、弱冠十五歳にて異父兄のオーラーブ・ハラルズソンと共にスティクレスタドの戦いに初陣にて参加。重傷を負うが、辛くも逃れる[30]
- 1046年[10](1047年[30]) ハラルド苛烈王がノルウェー王座に就く[10][30]
- 1048年[30] ハラルド王、オスロ市建設[30]
- 1050年[30] ハラルド苛烈王がハイタブを攻撃[30]
- 1066年[10][30][31]9月25日[30] ノルウェーのハラルド苛烈王がイングランドに侵入するが、ヨーク付近のスタンフォード・ブリッジの戦いで戦死[10][30][31]